「同文同種の国の歴史論、文化文明の発露として語ろう」 長谷川徳之輔
またも歴史問題で、日本人の心が揺れている。タレントとしての人気、ポピュリズムの風潮の中で生まれた若輩の地方政治家の従軍慰安婦を語る片言隻句に、世界中のメディアも知識人も、これぞ日本問題という批判の声を上げているが、日本の中でも、女性への蔑視だという感情的な倫理問題で論じられる向きが多い。
この声は一政治家への批判中傷ではなく、日本の歴史、文化、社会、日本人の存在への根深い国際的なわだかまり、非難中傷の見方をも表していると考えなければなるまい。
従軍慰安婦という言葉の論議より、このような不条理な問題が、なぜ国際的な話題になるか、批判中傷されるのか、本質的な論議を避けてはなるまい。
世界の五大国の一人、唯一の非白人国家だと夜郎自大の意識でいた日本人は、一九四五年の敗戦で、その誇りも、自信も砕かれて、飢餓の境、貧困の淵に陥った。
しかし、幸運なことに二十世紀後半の国際情勢、アメリカ追随の恩恵を受け、平和憲法を極意にして経済活動に励み、飢餓の境から暖衣飽食の果てに、極貧の国から世界一の経済大国にまで上り詰める奇跡を生んできた。
今や、飢える人も凍える人もいない、繁栄を謳歌し、言論や政治の自由は確保されて、基本的人権は保障され、自由を侵されることはない。教育は普及し、科学技術も進み、ノーベル賞も授与され、映画や音楽の芸術にも日本の文化、日本人の存在は際立っている。
とりわけ六十数年、戦争という、人類の業病とは無縁の存在として平和を維持してきて、日本人の大部分が戦争の悲劇を実感できない、幸いな存在である。世界で唯一、最高の文明国、平和国家になった、と日本人は思っているのだろう。再び「ジャパン・アズ・ナンバーワン」だという夜郎自大の意識を取り戻したのかもしれない。憲法改正問題も根本には、日本人が、この半世紀の日本をどう見るのかということにあろう。
しかし我々は、その中には、世界各国に、日本や日本人への羨望と嫉妬、尊敬と軽侮が入り混じった複雑な感情が生まれてきたのに気付いていなかった。とりわけ同文同種の国、アジアの歴史・文化文明を共有する中国、韓国には、日本が成長すればするほど、逆に「反日本」「日本は何するもの」という国民感情が日ごとに強くなっていったのかもしれない。
世界の大きな歴史、文化文明の流れから見れば、近代の二百年間は、十九世紀は産業革命、政治革命を経た帝国主義の、欧州主流の時代。二十世紀は世界戦争とイデオロギーの対立、経済発展が続いたアメリカ、日本の経済ヘゲモニーの時代。そして二十一世紀は遅れてきた、かつて文明国であった中国やインドなどの復権の時代なのかもしれない。
しかし、世界には、未だに産業革命も、政治改革も経ていない中世のままの国が、アラブ、アフリカには、たくさん残っている。北朝鮮もそうで、欧州が中世以降に経験した宗教改革すら済んでいない国に、二十一世紀の論理、システムが通じるのかどうかは疑問であり、心もとない情勢にある。
日本や日本人の文化、歴史を語る時は、このような日本の国際的位置を認識し、今は、繁栄から衰退・成熟への転換点にあり、二十世紀のイギリスが経てきたように、成熟安定した文化・文明国になる運命に置かれていることを覚悟しなければなるまい。
従軍慰安婦などの歴史の一局面を断片的に捉え、ナショナリズムから他国を批判中傷する動きに対して、いたずらにナショナリズムによる弁護言いわけを言い立てるのでは、感情的なナショナリズムを、さらに煽るだけで、大国同士が相互に理解し合うことにはならない。
韓国も中国も知性ある市民には、世界の歴史の流れ、日本の文化文明、日本人への理解が十分に存在しているだろう。政治が、一時の国際的なヘゲモニー争い、対立の中で、意図して、戦略的に、理解を超えた中傷非難の行動を取っているのだと、日本も、日本人もその動きを冷静に理解しなければなるまい。
問題は、二つの文明国が、なぜ、そういう行動を取るかである。尖閣、竹島の国境問題のみならず、歴史をたどれば、中国、韓国、日本の歴史には、旧満州(現中国東北部)、琉球、台湾、日清、日露の戦争、ついには元冠や遣唐使、仏教儒教の普及、卑弥呼の時代にまで遡ることになろう。
その昔、韓国は中国の属国、日本は朝貢国であった事実は否めない。それだけアジアの三力国の文化と歴史は豊かであり、互いに誇りと自負を持って然るべきであり、互いの歴史は、歴史として、文化論、文明論として、語り合い、理解し合うことが肝心であろう。
短絡的なナショナリズムに便乗して非難中傷し合い、国際的な政治活動の道具にするのは、長い歴史文化を誇り、共有する文明国の在り方ではあるまい。
まずは、歴史は文化・文明の話として、日本から、日本人から、ナショナリズムから離れて、互いの歴史を文化・文明論として語り、伝えようとする大人の姿勢を示して然るべきではなかろうか。結果は文明世界の常識に依存するしかない。
(明海大学名誉教授、東京都目黒区)
《沼朝平成25年6月2日(日)号投稿記事》
PR
http://tokusan.blog.shinobi.jp/%E5%BE%B3%E4%B9%8B%E8%BC%94%E3%81%AE%E6%84%8F%E8%A6%8B/%E3%80%8C%E5%90%8C%E6%96%87%E5%90%8C%E7%A8%AE%E3%81%AE%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E8%AB%96%E3%80%81%E6%96%87%E5%8C%96%E6%96%87%E6%98%8E%E3%81%AE%E7%99%BA%E9%9C%B2%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E8%AA%9E%E3%82%8D%E3%81%86%E3%80%8D「同文同種の国の歴史論、文化文明の発露として語ろう」