一人の語り部の話 長谷川徳之輔
世の中どうなったのか、これからどうなるのか
このところ、メディアでは戦後六十五年を振り返る記事やテレビが多いいようです。先日のテレビ「帰国」を見て、私自身、六十五年を振り返り、今の時代を反省し、身につまされる思いがしました。多くの語り部が語る時期かと思います。私も語り部の一人かもしれません。
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二十一世紀も十年過ぎ、平成は二十二年。二十世紀も昭和も、だいぶ遠くなりました。世の中は大きく変化しているようですが、誰にも先行きがよく見えず、不安な思いがしており、日本はシナリオも経験もない不透明な時代に進もうとしています。
私は1936年、昭和十一年生まれ、歳は古希を過ぎて、すべての仕事も終わった世代の男ですが、59年、昭和三十四年に建設省に入省して、お役人や研究者の仕事をして五十年、激動の半世紀を過ごしてきました。
この半世紀、日本は高度経済成長を謳歌し、国際的にも、歴史的にも、稀有な発展を遂げて、ジャパンアズナンバーワンだと言われた時代ですが、それがバブルで行き詰まり、90年代には一転して失われた十年に転落して成長から停滞へ向かい、時代が大きく変わる姿を眺めてきました。
沼津で生まれて十八歳まで香貫で育ちました。四小、四中、55年に沼津東高を卒業し、それから五十数年を東京で暮らしてきましたが、「故郷は遠くにありて思うもの」。沼津を離れても故郷の沼津が大好きだし、今も生まれた家は香貫に残っています。温暖で海山川の自然は豊か、食べ物はおいしく、東京にも近く、沼津は世界中で一番恵まれた住みやすい町だと、いや、そうであったと思っています。衰退を嘆く声が聞こえるのが残念です。
戦後六十五年とか、戦争前の生活や60年安保騒動を知る世代が減ってきています。総理大臣も戦後の生まれ。「戦前」「戦後」の用語は死語にすらなったようです。
沼津朝日に昭和二十年七月の沼津の空襲の話が連載されましたが、私も同じ世代、あの日のことは鮮明に覚えています。母と幼い妹と狩野川の河原に避難し、周辺に焼夷弾が落ちて青い火炎を散らし、黒瀬橋や町が燃え落ちていく姿を恐ろしい思いで眺めていた記憶があります。沼津駅に勤めていた父は、その時、亡くなりました。
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ゴルフの会の仲間で、たまたま終戦の詔勅をどこで聞いたのか、何を食べていたのかという昔話になりましたが、皆あの時代を思い出したくもない、子ども心に、天皇陛下の言葉より食べ物の話の方が深刻でした。
銀シャリなど、とてもお目にかかれない食糧難で、飢餓の極致にありました。ふすまやさつまいもの蔓とかが主食だったと飢餓の自慢話をし合いましたが、そんな彼らが今はクラブで豪華な美食を楽しんでいる。飢餓から飽食へ、なんとも時代は変わったことだと思います。
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さて、二十世紀がどんな時代だったのか、特に45年から六十五年、二十世紀後半の半世紀がどんな時代であったのか、二十一世紀、これからどうなるのだろうか、この六十年を経験した語り部の身から、少し数字を交えて語ってみましょう。
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「人口、百年で三倍、百年で三分の一」
二十世紀初頭、1900年の日本の人口は四三八五万人、近代化の中で半世紀後の50年に八三二〇万人と二倍に、さらに経済成長を背景に2000年には一億二三六一万人と、百年で、ほぼ三倍に増えている。
この人口増は大都市圏に集中して、東京圏二都三県)では、五四七万人から三四四七万人と全国平均の二倍の六・三倍に、とりわけ後半の五十年に人口の大都市集中が激化している。
沼津は1920年に七・七万人だった人口が2000年に二一・一万人と二・七倍。東海道の中枢に位置するにかかわらず、八十年の間に全国平均並みの増加にとどまっている。
しかし、人口は、80年代には出生率の低下から、増加から横ばいに転じ、二十一世紀を境に減少期に向かっている。
およそ経済予測というものはあてにならないが、人口予測だけは、確実に実現する。
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今、少子高齢化が進み、老人は増えるが、子どもは減少し、2005年を契機に人口はピークから減少に転じて、人口問題研究所の予測では、全国人口2025年に一億一九二五万人と、一〇〇〇万人近くの減少、さらに2050年には九五一五万人、ピーク時の四分の三にまで減少する、2100年、九十年先には、まごまごすると三七七〇万人と三分の一になってしまう恐れもあるという。
さらに、六十歳以上の高齢化人口の比率は1955年には五5・3%、百人中五人が高齢者という若い国であったが、2000年には19・6%、五人に一人が高齢者になり、さらに2050年には39・6%と十人に四人が高齢者となる老いた国になると予測されている。
その時の社会は、百人のうち五十人が働き、四十人の高齢者と十人の子どもを養うという、いびつな構造になる。
沼津市の人口も役所の資料では、2035年、二十五年先には一五・八万人へ、四分の一が減ると予測されており、沼津市の未来も例外ではない。
(はせがわとくのすけ=元大学教授。東京都目黒区在住)(以下、二十四日付二面に続きます)
(沼朝平成22年8月22日号)
一人の語り部の話 長谷川徳之輔
「拡大する市街地、衰退する中心部」
都市の発展も経済活動も基本的には人口に連動している。
土地利用の変化を都市、宅地面積の拡大で見ると、1900年、百年前に全国の都市、宅地面積は三八二二万㌶であったものが、60年に八五万㌶と、二・二倍に拡大。さらに2000年には一七九万㌶と、百年間で四・七倍に増加し、人口増加の三倍を上回る都市面積の拡大を示している。
東京圏の一都三県では、1900年の四・九万㌶から2000年には二四・四万㌶と五倍もの増加を見せている。特に二十世紀の後半に人口の大都市集中による都市化、宅地化の進展が著しく、周辺地域に拡大した宅地化は、地価の異常な高騰、無秩序な市街地化などの深刻な土地不動産問題を惹起(じゃっき)してきた。
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沼津市においても、人口増加による都市化の動きは、中心部の衰退を招き、周辺部の拡大となって現れている。
人口は、1920年の七・七万人から2000年の二一・一万人まで八十年間で二・七倍に増加。後半の五十年間では一二二倍の増え方であり、こうした人口の増加は全国平均並みではあるが、この人口増は、住民が中心部から郊外へ転出することで中心市街地の衰退、郊外市街地の拡大を招いている。
60年、昭和三十年代には沼津市の中心地域は、城内と言われた一中、二中、四中校区の旧沼津町であったものが、現在は大岡、金岡、旧原町など郊外の人口が増加し、中心市街地では減少。
2009年、沼津市の人口二一万人のうち一中校区住民は六七〇〇人、二中校区九八〇〇人、四中校区一〇七〇〇人、計二七二〇〇人(40年、昭和十五年五・三万人)で全市の一三%足らず。半世紀で半分に減少しており、反対に大岡二・一万人(同じ時期五九〇〇人)、金岡二・三万人(五四〇〇人)、原二・二万人(七二〇〇人)、愛鷹一・六万人など旧農村部が八七%を占め、半世紀で五倍以上に増えている。
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商業活動も、教育も、行政機能も、沼津の中心は中心部から北の郊外部へ移り、南北問題を生んでいる。
55年頃、沼津東高の同級生は一中、二中、四中の卒業生が百人を超え、沼津東高の生徒の四〇%を占めていた、今、一中では生徒数が激減し、一クラスしかない空き校舎の過疎の中学だと聞く。そういえば、同じ場所に住み続けている同級生は十人もいない。
「高度経済成長から成熟停滞経済へ、重いバブル経済の付け」
二十世紀から二十一世紀へ、大きな変化は高度経済成長から成熟低迷経済への転換である。
二十世紀の後半には、労働力人口の増加、技術革新、産業構造の転換もあって、日本は最貧国から最冨国に上り詰め、欧米諸国に追いつけ、追い越せの勢いで、世界第二位の経済大国にまで成長した。
所得倍増計画がスタートした1960年から2000年までの四十年間に、経済規模は名目で一六・七兆円から五〇三兆円へと三十倍、平均年率八・九%の成長を維持し、実質でも六・八倍、年率四・九%の成長を続けてきた。特に60年から70年までの十年間は、名目、実質とも一〇%を超える高度経済成長を続けてきたのだ。
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分かりやすく、勤労者一人当たりの月平均現金給与額でみると、60年に二・四万円だったのが、90年には三七万円と三十年間で十五倍を超えて上昇するが、90年代には頂点に達し、後半から低落している。
隆盛を極めた日本経済は、80年代のバブル経済のあだ花が崩壊し、90年以降は、金融危機、デフレ経済が発生。失われた十年もの時代が続き、経済大国の地位は失墜してしまった。
バブル経済の付けは重く、バブル脱出のために積み重ねられた国債残高は八六〇兆円を超えて世界一の借金大国に転じてしまい、財政再建は必至であり、増税など国民の負担は極めて重いものになっている。
(はせがわとくのすけ=元大学教授、東京都目黒区)
(沼朝平成22年8月24日号)
一人の語り部の話 長谷川徳之輔
世の中どうなったのか、これからどうなるのか
「これまでの五十年」
日本では二十世紀後半の高度経済成長期、人口は増加し、大都市に集中して、若年労働者の増加で生産労働力が増加する。大勢の若者が集団就職で地方から大都市に集まり、産業構造は農業から工業へ、第三次産業へ転換していく。
高速道路、新幹線、大規模な港湾など社会資本が全国に張りめぐらされて、誰も右肩上がり経済を疑わず、国際的、歴史的に見ても、希有な高度経済成長を遂げてきた。
1960年、五十年前の池田内閣の所得倍増計画では、所得を十年で二倍にすると計画されたが、実際には数年で二倍になってしまった日本は、その後三十数年続いた高度経済成長時代を謳歌、欧米に追いつき、追い越して、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」、世界第二位の経済大国までに成長した。
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経済成長の時代は、常に先行きに期待ができ、未来がより良くなる時代であり、収入は確実に増える、借金しても返せる、借金が利を生み、また利が借金を生むという循環を続けてきた。
個人だけでなく、国も、地方も、企業もそう思っていたし、少し景気が悪化すると、無節操に公債を発行し、投資を拡大、成長路線を金科玉条にして経済活動を進めてきた。
五十年前には、高速道路も、新幹線も、コンテナ港湾も、国際空港も、ニュータウンもなかった。1964年に東京オリンビック、70年には大阪万国博覧会が開かれ、高度経済成長を謳歌したが、繁栄が永遠に続くはずはなく、資産を確保すると同時に膨大な負債も抱えてしまった。今やGDP(国内総生産)の二倍もの八百六十兆円の借金、公債残高を抱える世界第一の借金大国である。
「これからの五十年」
日本にとって二十一世紀最大の変化は、百年で三倍に増加した人口が、今度は三分の一へ、少子高齢化が加速し、労働力人口が減少することであり、歴史上初めての経験として、教科書にはない、シナリオが見えない時代へ向かうことである。
労働力の増加、技術革新に支えられた経済成長は、低迷、停滞の成熟経済に向かわざるを得ない。日本は飢える人も、凍え死にする人もいない成熟した国ではあるが、明らかに成長をし続けて、先行きにつけを回せる右肩上がり時代は終焉(しゅうえん)している。
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歴史を見ても、十九世紀は産業革命、帝国主義の覇権を争った欧州の時代であり、二十世紀は民主主義、技術革新のアメリカ、日本の時代であったが、二十一世紀は急成長が進んでいる中国、インド等の時代だと、誰にも想像がつく。
今年、中国は日本を追い越し、世界第二位の経済大国の地位を確保する。選手交代は歴史の流れであり、日本が成熟国家になった表れでもある。
これからの五十年で、たとえ二%の成長が維持できても、経済規模は二・六倍、一%なら一・六倍にしかならない、収入も伸びない。国や地方の財政も同様である。問題は先行きにつけを送れないことであり、送れば自滅を迎える。
沼津の未来も同じであり、沼津朝日の記事で藻谷浩介氏が分析しているように、衰退縮小は必至と思わざるを得ない。
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好むと好まざるにかかわらず、人の気持ち、ものの見方も変わっていく。これまでの人口の増加、経済成長を前提にしてきた社会経済体制、経済の仕組みも変わらざるを得ない。
家族構成や倫理観にも変化が現れよう。最近の若者の意識が、何事にも消極的、保守的であって、覇気が失われていると言われるが、先行きに希望を持てない時代への姿勢であり、先につけを回せない時代であることを認識しているゆえであろう。
単身高齢世代の増加、家族制度の崩壊、未婚者の増加、結婚観の変化など最近の風潮も、人口減少の新しい時代の動きを示していよう。
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古い体制、考え方にも変化が表れ、常識の転換が進んでいる。例えば、最近のお相撲さんの野球賭博騒ぎ、相撲界を揺るがす大騒ぎだが、これまでの常識からは、お相撲さんが博打をするのは当たり前、どこが悪い、八百長相撲なら悪いが、かけマージャンや野球賭博なんて当たり前のこと、みんなそう思っていた。しかし、それを世の常識が許さなくなったのだ。
国際化、国際ルールが受け入れられて、経済活動の日本的常識も通用しなくなっている。行政も、政治も同じであり、公平、共存共栄を是としての、仲間内で利権を確保し合う利権構造も成長の成果を公平に分配し合う談合も許されなくなった。
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政治体制にも変革が鮮明になっている。民主党政権の登場は、選挙による政権交代が生まれたことであり、政治政界の再編成も進むであろうし、右肩上がりの仕組み、考えで作られてきた政治、行政も変革を迫られていると思う。
国民の意思により政権交代ができることを国民が認識したことで、古い体制が作ってきた利権構造や体制の特権への反発が強くなろう。政治家が世襲、官僚、労働貴族、宗教団体などの利権組織から生まれ、長年、仲間内の利権の確保と分配に精力を注いだ政治からの転換が、菅直人さんに象徴される市民政治家の登場で進もうとしている。
中央政治だけでなく、地方政治も同様の変革が進んでいるようだ。沼津の政治にも、変革の風が吹いているように見える。長年にわたりボス支配で牛耳られ、伏魔殿とも称されてきた古い体質の沼津市政にも、市民意識の成長の中で、変化の兆しが表れている。(はせがわとくのすけ=元大学教授、東京都目黒区在住)
(沼朝平成22年8月25日号)
一人の語り部の話
長谷川徳之輔
「沼津のこれから」
沼津の衰退が言われて久しい。沼津の衰退は、二十世紀の時代を脱して、新しい時代に相応し得ない行政、地域の仕組みに問題があると思う。
箱根山から見ても、愛鷹山から見ても、沼津市、三島市、清水町、長泉町の町並みは、都市機能が一体とした市街地、地域であり、街の間に行政の境界線は見えない。
百年前には、駿河の国と伊豆の国の差はあったが、今は自然環境も、交通システムも、住環境も一体であり、人口四十万人を超える中核都市として、組織的にも一体である地域が、政治、行政の立ち遅れから、ばらばらな状況に放置されている。
沼津市の人口の減少は、周辺への人口増になって表れており、長泉町などの周辺の人口増は沼津市から転出する若年層の出生率の高まりから生まれるものである。地域が一体であれば、沼津は決して、衰退しているとは言えないのだ。
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人口増加、経済の成長を前提にした街づくりにも変化が現れている。
市街地の拡大は逆の縮小に向かい、マイカー時代の都市の成長には限界が来ており、再び中心市街地にコンパクトに居住する都市、生活が復活しよう。
長年論議されてきた沼津駅周辺の総合開発計画、鉄道高架事業も、「それいけどんどん」のバブルの時代の人口増加、財政拡大の時期の都市づくりであり、人口減少や財政悪化の中では、その効果や市民の負担から見て、市民に利益があり、市民が負担できるものとは、とても思えず、身の丈に合った、現実性のあるものに転換せざるを得ないであろう。
(はせがわとくのすけ=元大学教授、東京都目黒区在住)(了)
(沼朝平成22年8月26日号)
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