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 一人の語り部の話 長谷川徳之輔

 一人の語り部の話 長谷川徳之輔
 世の中どうなったのか、これからどうなるのか
 このところ、メディアでは戦後六十五年を振り返る記事やテレビが多いいようです。先日のテレビ「帰国」を見て、私自身、六十五年を振り返り、今の時代を反省し、身につまされる思いがしました。多くの語り部が語る時期かと思います。私も語り部の一人かもしれません。
 ◇
 二十一世紀も十年過ぎ、平成は二十二年。二十世紀も昭和も、だいぶ遠くなりました。世の中は大きく変化しているようですが、誰にも先行きがよく見えず、不安な思いがしており、日本はシナリオも経験もない不透明な時代に進もうとしています。
 私は1936年、昭和十一年生まれ、歳は古希を過ぎて、すべての仕事も終わった世代の男ですが、59年、昭和三十四年に建設省に入省して、お役人や研究者の仕事をして五十年、激動の半世紀を過ごしてきました。
 この半世紀、日本は高度経済成長を謳歌し、国際的にも、歴史的にも、稀有な発展を遂げて、ジャパンアズナンバーワンだと言われた時代ですが、それがバブルで行き詰まり、90年代には一転して失われた十年に転落して成長から停滞へ向かい、時代が大きく変わる姿を眺めてきました。
 沼津で生まれて十八歳まで香貫で育ちました。四小、四中、55年に沼津東高を卒業し、それから五十数年を東京で暮らしてきましたが、「故郷は遠くにありて思うもの」。沼津を離れても故郷の沼津が大好きだし、今も生まれた家は香貫に残っています。温暖で海山川の自然は豊か、食べ物はおいしく、東京にも近く、沼津は世界中で一番恵まれた住みやすい町だと、いや、そうであったと思っています。衰退を嘆く声が聞こえるのが残念です。
 戦後六十五年とか、戦争前の生活や60年安保騒動を知る世代が減ってきています。総理大臣も戦後の生まれ。「戦前」「戦後」の用語は死語にすらなったようです。
 沼津朝日に昭和二十年七月の沼津の空襲の話が連載されましたが、私も同じ世代、あの日のことは鮮明に覚えています。母と幼い妹と狩野川の河原に避難し、周辺に焼夷弾が落ちて青い火炎を散らし、黒瀬橋や町が燃え落ちていく姿を恐ろしい思いで眺めていた記憶があります。沼津駅に勤めていた父は、その時、亡くなりました。
 ◇
 ゴルフの会の仲間で、たまたま終戦の詔勅をどこで聞いたのか、何を食べていたのかという昔話になりましたが、皆あの時代を思い出したくもない、子ども心に、天皇陛下の言葉より食べ物の話の方が深刻でした。
 銀シャリなど、とてもお目にかかれない食糧難で、飢餓の極致にありました。ふすまやさつまいもの蔓とかが主食だったと飢餓の自慢話をし合いましたが、そんな彼らが今はクラブで豪華な美食を楽しんでいる。飢餓から飽食へ、なんとも時代は変わったことだと思います。
 ◇
 さて、二十世紀がどんな時代だったのか、特に45年から六十五年、二十世紀後半の半世紀がどんな時代であったのか、二十一世紀、これからどうなるのだろうか、この六十年を経験した語り部の身から、少し数字を交えて語ってみましょう。
 ◇
 「人口、百年で三倍、百年で三分の一」
 二十世紀初頭、1900年の日本の人口は四三八五万人、近代化の中で半世紀後の50年に八三二〇万人と二倍に、さらに経済成長を背景に2000年には一億二三六一万人と、百年で、ほぼ三倍に増えている。
 この人口増は大都市圏に集中して、東京圏二都三県)では、五四七万人から三四四七万人と全国平均の二倍の六・三倍に、とりわけ後半の五十年に人口の大都市集中が激化している。
 沼津は1920年に七・七万人だった人口が2000年に二一・一万人と二・七倍。東海道の中枢に位置するにかかわらず、八十年の間に全国平均並みの増加にとどまっている。
 しかし、人口は、80年代には出生率の低下から、増加から横ばいに転じ、二十一世紀を境に減少期に向かっている。
 およそ経済予測というものはあてにならないが、人口予測だけは、確実に実現する。
 ◇
 今、少子高齢化が進み、老人は増えるが、子どもは減少し、2005年を契機に人口はピークから減少に転じて、人口問題研究所の予測では、全国人口2025年に一億一九二五万人と、一〇〇〇万人近くの減少、さらに2050年には九五一五万人、ピーク時の四分の三にまで減少する、2100年、九十年先には、まごまごすると三七七〇万人と三分の一になってしまう恐れもあるという。
 さらに、六十歳以上の高齢化人口の比率は1955年には五5・3%、百人中五人が高齢者という若い国であったが、2000年には19・6%、五人に一人が高齢者になり、さらに2050年には39・6%と十人に四人が高齢者となる老いた国になると予測されている。
 その時の社会は、百人のうち五十人が働き、四十人の高齢者と十人の子どもを養うという、いびつな構造になる。
 沼津市の人口も役所の資料では、2035年、二十五年先には一五・八万人へ、四分の一が減ると予測されており、沼津市の未来も例外ではない。
 (はせがわとくのすけ=元大学教授。東京都目黒区在住)(以下、二十四日付二面に続きます)
(沼朝平成22年8月22日号)

 一人の語り部の話 長谷川徳之輔
「拡大する市街地、衰退する中心部」
 都市の発展も経済活動も基本的には人口に連動している。
 土地利用の変化を都市、宅地面積の拡大で見ると、1900年、百年前に全国の都市、宅地面積は三八二二万㌶であったものが、60年に八五万㌶と、二・二倍に拡大。さらに2000年には一七九万㌶と、百年間で四・七倍に増加し、人口増加の三倍を上回る都市面積の拡大を示している。
 東京圏の一都三県では、1900年の四・九万㌶から2000年には二四・四万㌶と五倍もの増加を見せている。特に二十世紀の後半に人口の大都市集中による都市化、宅地化の進展が著しく、周辺地域に拡大した宅地化は、地価の異常な高騰、無秩序な市街地化などの深刻な土地不動産問題を惹起(じゃっき)してきた。
 ◇
 沼津市においても、人口増加による都市化の動きは、中心部の衰退を招き、周辺部の拡大となって現れている。
 人口は、1920年の七・七万人から2000年の二一・一万人まで八十年間で二・七倍に増加。後半の五十年間では一二二倍の増え方であり、こうした人口の増加は全国平均並みではあるが、この人口増は、住民が中心部から郊外へ転出することで中心市街地の衰退、郊外市街地の拡大を招いている。
 60年、昭和三十年代には沼津市の中心地域は、城内と言われた一中、二中、四中校区の旧沼津町であったものが、現在は大岡、金岡、旧原町など郊外の人口が増加し、中心市街地では減少。
 2009年、沼津市の人口二一万人のうち一中校区住民は六七〇〇人、二中校区九八〇〇人、四中校区一〇七〇〇人、計二七二〇〇人(40年、昭和十五年五・三万人)で全市の一三%足らず。半世紀で半分に減少しており、反対に大岡二・一万人(同じ時期五九〇〇人)、金岡二・三万人(五四〇〇人)、原二・二万人(七二〇〇人)、愛鷹一・六万人など旧農村部が八七%を占め、半世紀で五倍以上に増えている。
 ◇
 商業活動も、教育も、行政機能も、沼津の中心は中心部から北の郊外部へ移り、南北問題を生んでいる。
 55年頃、沼津東高の同級生は一中、二中、四中の卒業生が百人を超え、沼津東高の生徒の四〇%を占めていた、今、一中では生徒数が激減し、一クラスしかない空き校舎の過疎の中学だと聞く。そういえば、同じ場所に住み続けている同級生は十人もいない。
 「高度経済成長から成熟停滞経済へ、重いバブル経済の付け」
 二十世紀から二十一世紀へ、大きな変化は高度経済成長から成熟低迷経済への転換である。
 二十世紀の後半には、労働力人口の増加、技術革新、産業構造の転換もあって、日本は最貧国から最冨国に上り詰め、欧米諸国に追いつけ、追い越せの勢いで、世界第二位の経済大国にまで成長した。
 所得倍増計画がスタートした1960年から2000年までの四十年間に、経済規模は名目で一六・七兆円から五〇三兆円へと三十倍、平均年率八・九%の成長を維持し、実質でも六・八倍、年率四・九%の成長を続けてきた。特に60年から70年までの十年間は、名目、実質とも一〇%を超える高度経済成長を続けてきたのだ。
 ◇
 分かりやすく、勤労者一人当たりの月平均現金給与額でみると、60年に二・四万円だったのが、90年には三七万円と三十年間で十五倍を超えて上昇するが、90年代には頂点に達し、後半から低落している。
 隆盛を極めた日本経済は、80年代のバブル経済のあだ花が崩壊し、90年以降は、金融危機、デフレ経済が発生。失われた十年もの時代が続き、経済大国の地位は失墜してしまった。
 バブル経済の付けは重く、バブル脱出のために積み重ねられた国債残高は八六〇兆円を超えて世界一の借金大国に転じてしまい、財政再建は必至であり、増税など国民の負担は極めて重いものになっている。
(はせがわとくのすけ=元大学教授、東京都目黒区)
(沼朝平成22年8月24日号)

 一人の語り部の話 長谷川徳之輔
 世の中どうなったのか、これからどうなるのか
「これまでの五十年」
 日本では二十世紀後半の高度経済成長期、人口は増加し、大都市に集中して、若年労働者の増加で生産労働力が増加する。大勢の若者が集団就職で地方から大都市に集まり、産業構造は農業から工業へ、第三次産業へ転換していく。
 高速道路、新幹線、大規模な港湾など社会資本が全国に張りめぐらされて、誰も右肩上がり経済を疑わず、国際的、歴史的に見ても、希有な高度経済成長を遂げてきた。
 1960年、五十年前の池田内閣の所得倍増計画では、所得を十年で二倍にすると計画されたが、実際には数年で二倍になってしまった日本は、その後三十数年続いた高度経済成長時代を謳歌、欧米に追いつき、追い越して、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」、世界第二位の経済大国までに成長した。
 ◇
 経済成長の時代は、常に先行きに期待ができ、未来がより良くなる時代であり、収入は確実に増える、借金しても返せる、借金が利を生み、また利が借金を生むという循環を続けてきた。
 個人だけでなく、国も、地方も、企業もそう思っていたし、少し景気が悪化すると、無節操に公債を発行し、投資を拡大、成長路線を金科玉条にして経済活動を進めてきた。
 五十年前には、高速道路も、新幹線も、コンテナ港湾も、国際空港も、ニュータウンもなかった。1964年に東京オリンビック、70年には大阪万国博覧会が開かれ、高度経済成長を謳歌したが、繁栄が永遠に続くはずはなく、資産を確保すると同時に膨大な負債も抱えてしまった。今やGDP(国内総生産)の二倍もの八百六十兆円の借金、公債残高を抱える世界第一の借金大国である。
 「これからの五十年」
 日本にとって二十一世紀最大の変化は、百年で三倍に増加した人口が、今度は三分の一へ、少子高齢化が加速し、労働力人口が減少することであり、歴史上初めての経験として、教科書にはない、シナリオが見えない時代へ向かうことである。
 労働力の増加、技術革新に支えられた経済成長は、低迷、停滞の成熟経済に向かわざるを得ない。日本は飢える人も、凍え死にする人もいない成熟した国ではあるが、明らかに成長をし続けて、先行きにつけを回せる右肩上がり時代は終焉(しゅうえん)している。
 ◇
歴史を見ても、十九世紀は産業革命、帝国主義の覇権を争った欧州の時代であり、二十世紀は民主主義、技術革新のアメリカ、日本の時代であったが、二十一世紀は急成長が進んでいる中国、インド等の時代だと、誰にも想像がつく。
 今年、中国は日本を追い越し、世界第二位の経済大国の地位を確保する。選手交代は歴史の流れであり、日本が成熟国家になった表れでもある。
 これからの五十年で、たとえ二%の成長が維持できても、経済規模は二・六倍、一%なら一・六倍にしかならない、収入も伸びない。国や地方の財政も同様である。問題は先行きにつけを送れないことであり、送れば自滅を迎える。
 沼津の未来も同じであり、沼津朝日の記事で藻谷浩介氏が分析しているように、衰退縮小は必至と思わざるを得ない。
 ◇
 好むと好まざるにかかわらず、人の気持ち、ものの見方も変わっていく。これまでの人口の増加、経済成長を前提にしてきた社会経済体制、経済の仕組みも変わらざるを得ない。
 家族構成や倫理観にも変化が現れよう。最近の若者の意識が、何事にも消極的、保守的であって、覇気が失われていると言われるが、先行きに希望を持てない時代への姿勢であり、先につけを回せない時代であることを認識しているゆえであろう。
 単身高齢世代の増加、家族制度の崩壊、未婚者の増加、結婚観の変化など最近の風潮も、人口減少の新しい時代の動きを示していよう。
 ◇
 古い体制、考え方にも変化が表れ、常識の転換が進んでいる。例えば、最近のお相撲さんの野球賭博騒ぎ、相撲界を揺るがす大騒ぎだが、これまでの常識からは、お相撲さんが博打をするのは当たり前、どこが悪い、八百長相撲なら悪いが、かけマージャンや野球賭博なんて当たり前のこと、みんなそう思っていた。しかし、それを世の常識が許さなくなったのだ。
 国際化、国際ルールが受け入れられて、経済活動の日本的常識も通用しなくなっている。行政も、政治も同じであり、公平、共存共栄を是としての、仲間内で利権を確保し合う利権構造も成長の成果を公平に分配し合う談合も許されなくなった。
 ◇
 政治体制にも変革が鮮明になっている。民主党政権の登場は、選挙による政権交代が生まれたことであり、政治政界の再編成も進むであろうし、右肩上がりの仕組み、考えで作られてきた政治、行政も変革を迫られていると思う。
 国民の意思により政権交代ができることを国民が認識したことで、古い体制が作ってきた利権構造や体制の特権への反発が強くなろう。政治家が世襲、官僚、労働貴族、宗教団体などの利権組織から生まれ、長年、仲間内の利権の確保と分配に精力を注いだ政治からの転換が、菅直人さんに象徴される市民政治家の登場で進もうとしている。
 中央政治だけでなく、地方政治も同様の変革が進んでいるようだ。沼津の政治にも、変革の風が吹いているように見える。長年にわたりボス支配で牛耳られ、伏魔殿とも称されてきた古い体質の沼津市政にも、市民意識の成長の中で、変化の兆しが表れている。(はせがわとくのすけ=元大学教授、東京都目黒区在住)
(沼朝平成22年8月25日号)

 一人の語り部の話
 長谷川徳之輔
「沼津のこれから」
 沼津の衰退が言われて久しい。沼津の衰退は、二十世紀の時代を脱して、新しい時代に相応し得ない行政、地域の仕組みに問題があると思う。
 箱根山から見ても、愛鷹山から見ても、沼津市、三島市、清水町、長泉町の町並みは、都市機能が一体とした市街地、地域であり、街の間に行政の境界線は見えない。
 百年前には、駿河の国と伊豆の国の差はあったが、今は自然環境も、交通システムも、住環境も一体であり、人口四十万人を超える中核都市として、組織的にも一体である地域が、政治、行政の立ち遅れから、ばらばらな状況に放置されている。
 沼津市の人口の減少は、周辺への人口増になって表れており、長泉町などの周辺の人口増は沼津市から転出する若年層の出生率の高まりから生まれるものである。地域が一体であれば、沼津は決して、衰退しているとは言えないのだ。
 ◇
 人口増加、経済の成長を前提にした街づくりにも変化が現れている。
 市街地の拡大は逆の縮小に向かい、マイカー時代の都市の成長には限界が来ており、再び中心市街地にコンパクトに居住する都市、生活が復活しよう。
 長年論議されてきた沼津駅周辺の総合開発計画、鉄道高架事業も、「それいけどんどん」のバブルの時代の人口増加、財政拡大の時期の都市づくりであり、人口減少や財政悪化の中では、その効果や市民の負担から見て、市民に利益があり、市民が負担できるものとは、とても思えず、身の丈に合った、現実性のあるものに転換せざるを得ないであろう。
 (はせがわとくのすけ=元大学教授、東京都目黒区在住)(了)
(沼朝平成22年8月26日号)
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沼津市4次総基本構想案

 沼津市 4次総基本構想案示す
「市民生活の安全確保」
 沼津市は8日、市総合計画審議会(会長・千谷基雄県東部地域IT応用研究会会長)に、第4次市総合計画(2011年~2020年)の基本構想案を示した。
 「環境と人を大切にする拠点都市・沼津」と目指すべき将来像を掲げた上で、まちづくりの方針に「安心安全を実感し、環境と調和したまち」などを掲げた。さらに踏み込んだ施策には地域や警察との連携による犯罪防止のまちづくりや、危機管理体制の充実強化を図る「市民生活の安全確保」
を新たな分野として盛り込んだ。
 この日、審議会の初会合が、市民文化センターで開かれ、栗原裕康市長が学識経験者や商工会議所、NPO法人などの各代表ら委員33人に委嘱状を渡した。12月をめどに答申し、市は来年の2月定例会に議案として提出する。
 同市は昼夜間で人の移動の程度を示す「昼夜間比率」が県内2位と現状の拠点性は高いが、2020年の人口推計は2005年を約1割下回り、高齢化も進む見通し。市は「地域活力の強化が求められる」として①定住人口確保②交流人口の拡大③環境との共生④安心安全ーの3点をまちづくりの主要課題に設定し、まちづくり会議や市長と語る会などで意見を聞いている。
(静新平成21年9月9日(水)朝刊)




第4次総合計画策定で
 基本構想案を総合計画審議会に詰問
 12月に答申受け 来年2月の市議会上程へ
 第四次市総合計画基本構想の総合計画審議会(事務局・市政策企画課)が八日、市民文化センター練習室などで開かれ、委員二十九人が出席した。市がまとめた同構想案について諮問を受け、十二月に答申。市は来年二月の定例市議会への上程を予定している。同日は初めての会合で、市から説明を受けた後、審議会委員長に県東部地域IT応用研究会の千谷基雄会長(日大教授)、副委員長に市自治会連合会の高木孝会長を選任。栗原裕康市長代理の井原三千雄企画部長から千谷委員長に基本構想案が手渡された。構想案は副市長を委員長、課長クラスを委員とする市の策定委員会でまとめられた。
 総合計画は地方自治法に基づく市の最上位の計画であり、これまで三つの総合計画を策定。一回目は昭和五十一年、二回目は昭和六十一年、三回目は平成十三年からの各十年間。総合計画は基本構想と基本計画、推進計画の三つに分けられる。
 第三次総合計画では、推進計画の前期で沼津駅北口の整備、市立高中高一貫校化、らららサンビーチ開設など、後期で小中学校の言語科導入、サンウェルぬまづの開設、再開発ビル建設などがある。
 四次計画では、市民の声を反映させることを念頭に、市長と語る会、市民まちづくり会議、地区まちづくり会議を開くなどして、これらの意見を基に案が作成された。
 平成二十二年度までの第三次計画については事務局の政策企画課が、「基本構想の将来都市像『人が輝き、まちが躍動する交流拠点都市・沼津』は、おおむね達成したと思っている。しかしながら、市民が満足しているかというと、市長と語る会、市民まちづくり会議、地区まちづくり会議でも出たが、社会情勢は大きく変化しており、白然災害対策や子育て対笛など、市民間には、まだまだ不満がある」などと説明。
 今回の案では基本構想の第一目標に「定住人口の確保」、二番目以降「交流人口の拡大」「環境との共生」「安全・安心なまちづくり」を掲げる。
 あいさつした千谷委員長は「民主党が圧倒的多数で勝ったが、民主党が必ずしも立派だからということではなかったのではないか。(政権交代は)高度(経済)成長の時代が終わり、新しい時代を模索しなければならないことを示している。(かつてのアメリカのように、それにならって)粛々と動いていればいいというモデルは、もうない。少子化など高度成長の時代にはない非常に厳しい課題を突き付けられて、この十年間に臨まなければならない」とした。
 また、「国が具体的な計画を示すことはないだろう。我々自身がやっていかなければならない。三次(総合計画)は平成の不況をどうするか、ということだったが、四次では地方自治体のあり方にまで深めていかなければならない。課題に対して具体的な案を提示して市民がコミットして、このまちを変えていくということにならなければならない。その出発点として四次総合計画がある。そういう意味で画期的な、重要な位置付けにあると思っている」と就任直後にあいさつした。
 この後、第一「環境・安全・安心」、第二「定住・暮らし・協働」、第三「交流・産業」の各部会に分かれ、部会長などを互選した。
 委員は次の通り(敬称略)。
 ▽第一部会"水谷洋一(静大准教授、環境保全審議会副会長)、柳下福蔵(沼津高専校長)、谷川治(静岡新聞社・静岡放送東部総局長)、飯田理一朗(市民団体代表)、高木孝、千谷基雄、宮武裕昭(国土交通省沼津河川国道事務所長)、本橋和志(県沼津土木事務所長)福島数男(県東部支援局長)、神尾一(公募)、中山康之(同)
 ▽第二部会"伊東哲夫(弁護士、行政改革推進委員会委員長)、犬塚協太(県立大教授、男女共同参画推進プラン策定委員会委員長)、秋鹿敏雄(沼津中央高理事長)、内田卓雄(原中校長、小中学校校長会副会長)、赤堀貴之(市民活動団体代表)、日高達也(市社協会長)、加藤眞久(市体協会長)、荻生昌平(沼津文化協会幹事長)、青木一雄(沼津医師会長)、臼井豊(地区労働者福祉協議会長)、甲田悦隆(公募)
 ▽第三部会=西山幸三郎(東海大開発工学部長)、中山勝(企業経営研究所常務理事)、荒川邦夫(市水産振興会長)、勝亦一強(沼津観光協会長)、後藤全弘(沼津商工会議所会頭)、清水英一郎(商議所青年部会長)、松永公良(沼津市商工会長)、鈴木道也(南駿農協組合長)、桑崎雅人(中小企業家同友会沼津支部長)、監物知利子(公募)、椿美邦(同)。
(沼朝平成21年9月9日号)

還暦候補者達の知事選ですか。

静岡県知事選挙



    平野定義 59歳       共産党公認



    海野徹  60歳 無所属



    川勝平太 60歳 無所属   民主党推薦



    坂本由紀子60歳 無所属   自民党・公明党支持



(中部、西部、東部の争い)

地方選挙は支持地域、基盤が重要だが、平野定義氏は、出身地の静岡市などの中央地域が地盤、海野徹氏(静岡高校)は静岡市市会議員を務めており、静岡市などの中央地域が地盤、川勝平太氏は落下傘候補で静岡県出身ではなく、たまたま浜松にある県立大学の学長、浜松など西部が地盤、坂本由紀子氏(沼津東校)は三島市出身、静岡県県副知事も務めた静岡県人、三島など県東部が地盤、前石川知事の後継者なのか。
海野徹氏、平野定義氏も静岡市の住民、地域の根差した政治家。政治力、人口集積、経済力からいえば、県勢は、中央部、西部、東部の順であり、西へ行くほど力は増し、東部地域の政治力は相対的に弱体と思われる。



(下馬評、政権交代の前哨戦)

下馬評では、自民公明推薦の坂本由紀子と民主党推薦の川勝平太の接戦だという。中央政界の大変動の余波を受けて、衆議院選挙の前哨戦で、与野党と対立の中で、政権交代の与野党の選択の選挙だといわれている。このところ、麻生自民公明政権への評価が墜落して、支持率は20%を下回り、自民党は大揺れ、名古屋市はおろか千葉市、横須賀市までも民主党が勝利し、自民党は低落の勢いを強め、政権交代の実現が現実化している。はたして、静岡県知事選挙はどうなるのか。



(若くもなく、頼まれ仕事)

4人とも年齢は60歳、戦後生まれで若くも、年寄りでもない中堅世代だ。今様な若さを売り物にできない。中途半端な世代だが、21世紀の政治家ではあろう。4人とも、もともと県知事を目標にして政治活動していたものではなく、その経歴、時勢の動きから政党から引っ張り出された受動的な県知事候補者であり、県政において、何をしたいのか、何をするのか、自分の考えは明確とはいえない。マニュフェストも自分の考えより、地域全体の考え、時の動きの集約とものともいえるものである。受身の姿勢の頼まれ候補者である。



(落下傘候補、マスメディア売りの学者候補)

川勝平太氏は落下傘候補、静岡に地盤があるわけではなく、たまたまの県立大学の学長を務め、マスメディアにも顔の売れた学者が売り物、インテリ層には人気のある全国区の評論家風情の学者だが、そのインテリ臭さが、県民の人気を呼ぶか、嫌われるか。
都会的でハンサムな男性であり、女性の人気如何が問題、支援者は全国各地に及び、ある面では学者を踏み台にした学者商売人、学者政治屋の印象が強い。



(才媛、弱さ見える官僚候補、石川前知事の後継者か)

坂本由紀子氏は、厚生労働省出身の才媛官僚であるが、政治的なパワーに欠け、ひ弱なイメージが否見えない。官僚神話、政策力が地に落ちている時、県政の政策面や政治力を発揮することが期待できるのか、官僚政治への批判に県民の危惧があろう。女性票を集められるのか、県東部の全面的な支持を受けられるのか、プラスでもマイナスでも、県会議員や県職員など県庁内に石川知事の後継者としての評価が高いのかどうかが問われる。



(上昇志向濃厚な地方政治家)

海野徹氏は、静岡市会議員、県議会議員を務めた典型的な地方政治家、民主党の参議院議員を一期務めたが、なぜ民主党を離れたのか、県知事が与野党の党派の選挙のときにあえて立候補するのはなぜか、静岡県政に大きな政策、どのような戦略があるのかがよくわからない、市会議員、県会議員、参議院議員、県知事へと上昇志向の強い地方議員のイメージが強い。



(今なぜ共産党が候補者を立てるのか)

平野定義氏は、まじめな共産党員で、県知事選挙でも、市民擁護・大企業批判の共産党の主張を掲げて党勢の拡大を図る戦略であろうが、政治姿勢は一番まじめで、マニュフェストにも共感を呼ぶものが見受けられる。政権交代が国政の重要な政治課題であり、時代の動きであるときに、なぜ、今の時期に共産党の党勢拡大のために県知事選に立候補するのか、共産党の目標がわからない。



(マニュフェストに違いなし、数値目標なし)

 4人のマニュフェストに大きな違いはない。環境、福祉、教育、治安などを重視し、安心安全な静岡県を作ろうとする姿勢に違いはなく、財政問題も取り上げて、行財政改革を進めて、無駄な仕事をやらないという点は共通している。各人のマニュフェストは、地方自治の仕事を羅列的に並べるだけで、具体的な数値目標は掲げていない。それを論じるだけの準備や作業をしたわけではないからだろう。もともと地方政治にそんなに違いがあるわけがない。



(箱モノから人へ)

箱モノ行政を主題にする候補者はいないし、あえて箱モノ行政の説明を避けているきらいもある。無駄な事業として富士山空港を取り上げてはいるが、具体的な問題点やこれからの在り方を明確に説明するものはない。具体的な名前は、坂本候補者が、新東名、中部横断道路、駿河湾3港湾、富士山空港を取り上げてはいるが適切に実施するというだけで、特に沼津市にとってもっとも重要な事業だという沼津駅周辺総合整備事業を取り上げている候補者は皆無である。



(消えゆく沼津駅周辺鉄道高架化事業)

どの候補者が県知事になろうと、静岡県の行財政の改革、箱モノ優先からから福祉、教育、環境への行財政の転換は必至であり、かっての箱モノ優先、財政力豊かな時代
のプロジェクトは軒並み、再検討を迫られるであろう。静岡県が施行主体で資金、責任を持つ箱モノ、ふじさん静岡空港並みに2000億円、20年の年月を要する巨大な沼津駅周辺総合整備事業がこのまま進むことは極めて困難であり、新しい知事も、早急にその見直しをしなければなるまい。



(知事選の争点は何か)

静岡県知事選の争点は何か、なにはさておいても迫る衆議院議員選挙の前哨戦として、与野党の政権交代を迫る政党の選択の選挙でもあるが、静岡県政の改革の本質は高度経済成長に依存して健全な財政基盤だからという理由から、むやみやたらに進めてきた箱モノ行政をどう転換するか、時代に対応した行財政をどう立てるかであり、それを政党、候補者は明確に訴えるべきであるが、どの政党、候補者もあえて、避けている感がしてならない。

地方選挙に思う天下り、官僚制、世襲の構造

地方選挙に思う天下り、官僚制、世襲の構造

最近の世の中の政治問題は、相も変わらず官僚の天下り、官僚利権の批判追求であるが、それに新人議員の世襲が新たに加わったようである。天下りも世襲も、突き詰めれば利権の確保、維持の仕組みである。それが選挙で現れる。故郷の静岡県知事選挙も、各政治主体、政党からの候補者の選出も進まず、もたもたする田舎選挙ぶりで、県民もしらけている様子がうかがえる。その本質は、従来型の民主主義が通用しなくなっていること、天下り、世襲、ドンの後継者選びという旧体制が崩壊していることにも原因があろう。

これまで地方政治の首長にはずっと官僚の選出が通用してきた。旧自治省や中央省庁に入った官僚たちには、出世の一つが国会議員になること、二つが地方政治の首長になること、それがだめなら配下の利権団体の長になることにあったことは、否定できないし、世の中もそう認めてきたのだ。1000年以上続いた中国の科挙による支配者の選出は、王朝が変わっても官僚体制を維持し、政治の安定を図る仕組みであったし、明治近代化以来のわが国も仕組みも、その根底は同じ、公正で利権がなく、頭がいいと思われている賢者の官僚が政治を差配することが一番だと思われてきた結果なのである。地方政治には今なおその意識が強い。46都道府県知事には、官僚出身者が圧倒的に多いい。故郷の静岡県、人口380万人の大県も、長年自治省出身の石川知事が仕切ってきた。今回もその後継者選びに従来の官僚制が維持されるのかどうか、注目されている。このところ、従来の官僚制による地方自治が崩壊して、ポピュリズム濃厚なタレント候補になる傾向が強まり、宮崎県、大阪府、千葉県などでは官僚制知事は崩れて、情報過多、無責任な市民意識からテレビタレントが市民の支持を受けて登場する勢いが強まっている。静岡県においてもそれが通用するかどうかである。

静岡県の知事、石川知事は3期続いた自治省の出身の典型的な官僚、県政への長年の努力で静岡県の地方政治のドンの存在になっているように見える。財政力、メディア力、官僚体制力を屈指して、安定した地方自治、政治体制を作ってきた。潤沢な財政力から人目を呼ぶ箱モノづくりを進めてきてそれなりの評価を得たように見えた。典型が静岡空港であったが、財政悪化、箱モノ反対の時勢の変化は、結果的にその仕組みを破壊してしまった。その延長なのか、県知事選びも従来の体制が通用しがたくなっているように見える。本来なら、元副知事で、官僚出身の参議院議員のS氏が与野党相乗りで、すんなり押されて、後継者になるのが常識であるのだろが、どうもそうはいかないらしい。

県政は中央集権で、どの都道府県でも、県政には中央官庁の官僚が出向して知事を支え、中央とのパイプ役をすることが当たり前、その仕組みは市町村政治まで及んでいる。静岡高校、浜松北、沼津東などの高校閥がはびこり、その県出身の各省庁のエリート官僚がそのコースを当然のごとく受け入れて、県庁の幹部を務めていく、その官僚たちの中から地方政治の首長が選ばれ、後継者が選出される。ドンはその運営役なのだ。地方議員たちにも、都合がいい。官僚出身者は小心ゆえ、身がきれい、談合や利権に手を染めない、それは地方議員たちの権限なのだ。利権を分配するのは地方議員たちの権利だし、仕事と思われている。その関係がずっと続いてきたのだ。私事だが私は1959年の建設省入省の役人だったが、その頃は、癒着を恐れてか、若手官僚を出身県には出向させないのが慣行であった。私は静岡県には全く関係はなかった、しかし、いつの間にか、出身県へ出向させることがあたり前になってしまった。高校の後輩たちが相次いで静岡県の幹部を務めてきた。それが県庁、市役所に強い官僚基盤を作ってしまったといえよう。官僚利権の形成であり、維持のシステムである。それは県政から市町村政治にも及んでいる。

右肩上がり、財政が豊かで、どう政治が進んでも市民に利益がある時代にはそれが通用してきた。官僚たちが一緒になって中央から利権を引き出し、ふくらませ、それが県や市の利益につながれば誰も文句を言うことはなかった。官僚出身者が首長になることは、地方政治にとって利益があり、公正な政治がおこなわれると市民にも歓迎され、利権を確保できると地方議会にも認められてきた。しかし時代は変わった。右肩上がりの経済、財政は失われ、野放図な財政運営は不可能になり、公正無私だと思われた官僚の神話は地に落ちた。官僚に変わり、マスメディアの影響で顔の売れたタレントが地方政治に乗り出してきた。これまでの政治体制、民主主義の仕組みが通用しなくなったのかもしれない。ドンの支配力が消えているのである。

地方議会の仕組みも、従来型の利権構造がなお幅を利かせている。政党や政治信条に関係なく、議員のポストそのものが利権の対象になっているようだ。宗教団体の役員や労働組合の幹部が仲間内の選挙で選ばれて地方議員になる。天下りと同じ構造である。地方議会での、立候補者は定数ぎりぎりに絞り、極力競争を無くしてポストを維持しようとする。与野党の区別なく、議員に政治信条は乏しく、少数の支持者の利益、利権が優先する。議会活動は低調で、議会ごっこの形骸化した姿ばかりが目立つ。それに加えて、今回は世襲の制限が論議されている。確かに、4代、5代と議員を続ける名門家族もあるし、家業としての議員活動もあるが、多くは議員周辺の利権集団の利益を確保する、組織を維持するだけの仕組みになっていることは否定できまい。憲法違反だとか職業選択の自由の侵害とかの反論もあるが、肝心なのはグループの利害、利権の確保、維持を世襲という形式でやっていいかどうかということではないのか。近く、衆議院議員の選挙がおこなわれるし、静岡県知事選挙ももうすぐである。わが国も民主主義がどうなっているのかを知るいい機会である。

市長選の争点は何だったのか:長谷川徳之輔


市長選の争点は何だったのか 長谷川徳之輔
ー投票率47%の悲喜劇
 今回の沼津市長選挙、投票率は前回と変わらない四七%の低率で、民主主義が発揮された選挙だとはとても思えない。その結果で鉄道高架事業が認められ、これを推進するという市民の意思が明確に表明されたとも言えない。皮肉に見れば、この結果に一番困惑しているのは、静岡県と国土交通省であろう。
 計画を立てた時点と今では経済社会情勢が全く異なる。深刻な財政難、公共事業への国民の評価から、無駄な箱モノ事業はやれない、やらないというのが国民のみならず官庁の常識である。
 しかし、一度決めたことは止められない。ずるずるとでも進めなければ立場がないというのも、行政の姿勢であり、自ら止めるとは口が裂けても言えない。決めるのは民意であり、民意が求めているという理由で、仕方なく変更するのが通例であり、これが彼らの責任逃れの理由になる。
 民意を問う選挙は方向転換する最有力の手段である。本音のところ、静岡県、国土交通省とも今回の市長選挙で、無駄な事業はやらないという沼津市民の民意を期待していたのであろう。しかし、そうはならなかった。
 たとえ、沼津市民が推進すると決めたところで、現下の経済情勢は、それを簡単に許すことはできない。金融恐慌とか大不況とかいう国際経済情勢は、沼津市の財政にも、沼津市民の生活にも確実に影響してくる。
 しばらくは、厳しい時代が続き、財政難は目に見えている。二千億円もの大型公共事業を進める実力は沼津市には全くない。現に、事業認可が済めば工事はすぐ始まると言われたが、今年の予算にも、来年の予算にも鉄道高架事業本体の予算は一円も計上されていない。二年先延ばしされた用地買収の遅れが理由とされているが、先行き膨大な負債を負う事業を進めるのに、国も、静岡県も、沼津市も逡巡(しゅんじゅん)しているのが本音であろう。
 時期を経れば、ますます困難は増すであろうし、二、三年先には県知事も代わって、大型公共事業を推進する姿勢を転換し、静岡県は事業主体から降りてしまうだろう。
 人口二十万人の都市に二千億円もの投資をするのは県財政からも不可能であり、もし沼津市が進めたいのであれば、沼津市に事業の責任を移そう、沼津市民の負担で進めたらいいのではないか、と言うかもしれない。
 そのために人口二十万人以上の市が、事業主体になれるように制度も改正されている。しかし、沼津市に、その実力は全くない。膨大な借金を抱えたまま、事業化をあきらめざるを得ないということで、最もみじめな終末を迎えることになろう。
 今なら賢明に止められたはずである。機会を失した沼津市民の判断ミスが露呈することになる。
 選挙で市民の考えが見えた今、もう一度、沼津駅周辺総合整備事業の何が問題なのか、鉄道高架事業の本質を考えてみよう。

 (一)鉄道高架事業と旧国鉄救済策
 この事業は、本質は旧国鉄の財政救済策であったのである。旧日本国有鉄道がJRとして民営化されたのは一九八〇年代、中曽根内閣の時であり、多額の財政資金が国鉄救済に使われることになった。
 JRは、新規の事業はできなくなり、土木建築の国鉄職員の働き場所がなくなる。鉄道高架事業は旧国鉄、JRの事業としても浮かび上がり、建設省と運輸省で鉄道高架事業を進める方策が検討され、鉄道サイドの負担を極力少なくし、ガソリン税等の特定財源を有する道路サイド、自治体の負担を大きくして事業を進めることにして所要の仕組みを打ち立てた。
 大都市の連続立体交差事業は鉄道側にも便益があるので、費用は道路が八〇%、鉄道が二〇%とし、地方都市の連続立体事業では、鉄道に利便が薄いために道路が九五%、鉄道が五%として道路、自治体が大部分の費用を持つことにし、さらに高架事業で貨物駅や車両基地を移設する時は、その費用は原則として、全て道路、自治体が負担することにして旧国鉄を援助することにしたのである。
 用地買収も全て自治体の責任であり、自治体が買収する。しかし、出来上がった高架鉄道施設、貨物駅、車両基地は全てJRの資産であり、費用全額を税金で負担したにもかかわらず、自治体のメリットは、やや自動車交通が便利になる程度であり、高架下の用地も一五%もらえるだけで、ほかに何のメリットもない。
 市民の税金はJRに移行して、何年にもわたって、JR職員の給与は自治体の負担で支払われることになる。
 工事はJRお気に入りの企業に発注される。現に、JRは貨物駅や車両基地の必要性や利用状況などについて、費用を負担する市民に何の説明をしようともしない。
 民間企業であるJRが自分の利益を増やそうとするのは当たり前だが、あの時とは異なり、鉄道財政は好転し、利益を計上している、他方、地方財政はひっ迫し、深刻な財政難に直面している。これから二十年間も自治体、市民がJRを救済し続けることが妥当なのか。

 (二)鉄道高架事業と市民の負担
 この事業は鉄道高架事業のほか、五つの事業で構成され、総額ほぼ二千億円、事業期間が二十年、沼津市民の負担は、ほぼ六百億円で、全体で三分の二は国と県が負担するので沼津市の負担は約三分の一で済み、六百億円だと説明されている。しかし二千億円自体がアバウトな数値であり、確定したものではない。公共事業の予算では、費用はより小さく、効果はより大きく計上させるのが常道であり、数字が変わるのは常識であり、事業費の増加は避けられない。
 そもそも、この試算はあのバブルの時期に策定したもので、大きいことはいいことだという期待の数値に過ぎない。国や静岡県の補助、援助もそうしてくれれば、という数値であって、確定したものではなかろう。
 その時と比べて今、公共事業の事業規模は半分以下になっている。来年度も五%の減である。事業量が半分になれば期間は二倍になる。かつての右肩上がりの経験で、そうなると期待することは危険である。厳しい時代が続く先の二十年には不確定なことが多すぎる。数字でごまかしてはいけない。
 その不確実な数字でさえ、市民の負担は六百億円とされている。市には、基金として蓄積した二百七十一億円があり、その費用は他の市民サービスを減らすことなく、増税しなくても、借り入れをしなくても、十分やっていけると説明されている。果たしてそうなのか。
 その基金は借入金を積んだものであり、それも貨物基地、鉄道用地や代替え地の買収に使われて底をついており、さらに土地開発公社が百億円の負債を抱えているという。毎年減少を続けている沼津市の財政を見れば、そんな余裕は全くない。増税か借り入れをしなければ高架事業工事費の資金が出るはずはない。
 今でも千四百億円の負債を抱えている。高架事業の資金を借入金で進めるならば、事業負担が六百億円だとしても、負債は二千億円に増加し、金利を算入すれば、さらに大きく、沼津市にとって返済不能の額になろう。「夕張への道」である。
 鉄道高架が完成するのは二十年後。今、推進に懸命になっている人達の子どもが四十歳、五十歳の時であり、完成を見ることができない親も多かろう。
 それまでに積み重なった負債が、次の世代の子ども達、その次の世代の子ども、今の世代の孫達に転嫁されることである。三十年、四十年の先まで大きな負債を残すことである。
 しかし、子どもや孫達まで及ぶ膨大な負債を今の我々親達が残していいものだろうか。資産は残しても負債は残さない、それが親の世代の務めではないのか。

 (三)土地収用と高架事業
 原の貨物用地の買収が、頓挫して動いていない。これから、土地は売らないという抵抗運動がさらに強まろう。
 そもそも、なぜ原地区にこのような大規模な貨物用地が必要なのか、十分に市民を納得させてはいない。東京の汐留でも、飯田橋でも貨物基地は撤廃され、オフィスやショッピングの町になっている。
 なぜ大した貨物量がないと思われる沼津駅の貨物のために、原地区に巨大な貨物駅が必要なのか、理解に苦しむ。JR貨物は、その理由を説明しようともしない。貨物駅移転措置がJR救済対策であることを説明しにくい事情もあるだろう。
 沼津市当局は貨物用地の買収のために土地収用法を使うということで、予算を計上したと伝えられている。
 そもそも、なぜ事業主体ではない沼津市が、なぜ土地収用をするのか。この貨物駅が土地収用法の対象になるのかどうか疑問である。
 この五十年間、市町村が土地収用法を発動した事例は全くないと言われている。この土地は土地収用、強制買収ができる土地なのか国土交通省の有権解釈を聞いてみなければならないし、裁判沙汰になれば最高裁までいく案件である。
 確かに形式的には、この用地は都市計画法で事業用地として事業認可されて、公共性があるものとされている。しかし、最終的には、貨物駅の土地の所有、利用、処分の権限はJRに帰属するものであり、静岡県にも、沼津市にも権利はない。
 また、貨物駅設置は、制度的には鉄道高架事業の本体ではなく、その移転補償、公共補償として行われるので、本来は土地収用の対象にはならないはずの土地である。たとえ公共補償の対象の土地であって強制収用できるとしても、実行するのは静岡県であり、沼津市ではない。静岡県には、強制収用する気はないようである。
 強制収用するなら、鉄道施設としてJR貨物が主体的に実行すべきものである。JR貨物には、その意志は全くないと思われる。少しでも反対者がいれば、この事業は成立しない。

 (四)広域行政と高架事業
 この地域での大きな課題は、日常生活や経済活動で一体化したこの地域で、いかにして広域行政を進めるか、広域一体化、合併への道筋である。行政主体同士の反目もあって容易に進みそうもなく、道州制ともあいまって混乱がなお続く恐れも強い。周辺自治体が合併を進めたくない理由の一つが、沼津市の持つ膨大な負債であり、鉄道高架事業でさらに増えることを危惧していることである。貧乏で借金まみれの婿に嫁に行きたくないということであろう。
 さらに、沼津市の中心部だけに二千億円の投資を集中することへの反発であろう。
 今、新幹線三島駅の駅一前の改修が行われて、新一幹線三島駅がこの地域の交通の中心であることは間違いない。沼津駅中心の沼津の考え方がどう評価されているのか、周辺自治体を含めた広域の都市計画の中で、周辺自治体から鉄道高架事業がどう評価されているのか、改めて考えてみなければならない。
 広域行政、政令指定都市構築が大きな課題であるならば、鉄道高架事業がどう影響するのか、大きな課題である。
 東京駅から沼津駅まで湘南電車で二時間の旅、沿線を見た時、どこに鉄道高架施設があるのか。新橋まで高架下は飲み屋や駐車施設に使われているが、新橋を過ぎれば平面で延々と鉄道敷地が続いている。品川、蒲田、川崎と開かずの踏切の連続である。横浜駅も横断は駅の地下道を使うしかない。
 沼津市より大都市の藤沢、平塚の駅も平面交差、不便だろうが自動車は地下道路なり横断橋で通行している。小田原駅には、駅内を通る歩行者専用の道路が市街地を結んでいる。どこにも鉄道高架施設は見られないのである。部分的な立体交差は意味がない。なぜ沼津駅周辺で数キロの鉄道高架をしなければならないのか、議会や識者には、ぜひ論議してほしいものである。
 新しい沼津市長となる人が誕生して、新しい政策が実行されるものと期待されている。新市長は沼津駅周辺総合整備事業について、これまでの計画を実施するという公約であるが、以上述べた諸問題をどう考えるのか、新しい議会の論議で大いに論じてほしいのである。(前明海大不動産学部教授)
(沼朝平成20年10月31日(金)号)

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