「芙蓉市・ふよう市・FUYOUCITY」の議論の薦め 中 長谷川徳之輔
駿河国と伊豆国、微妙な格差
三島と沼津には、長い間の歴史的なわだかまり、兄弟喧嘩の利害の対立があったと思う。律令以来の駿河の郷である沼津と伊豆の郷の三島には、歴史的に大きな違い、差がある。
駿河の地の中心は駿府静岡であり、沼津は東の辺境の地であった。伊豆の中心の国府は三島大社のある三島の町で、駿河と便豆の国境は、清水町、長泉町の黄瀬川辺りであったのだろう。もともと伊豆は相模との一体感があったのであり、明治の初めには相模県だったということである。
伊豆は江戸幕府の直轄地、天領であり、下田奉行や韮山代官所の支配する土地、直参の士の住む所で、気位は高い。江川太郎左衛門らの幕末の指導者が輩出し、韮山反射炉に見えるように、文化度、知性度も高かった。
これに対して沼津の地は、三枚橋城(沼津城)の城下町であるが、幕末は水野藩五万石余の小藩の地。明治初年に沼津兵学校という重要な学術インフラが生まれたが、あっという間に雲散霧消してしまった。
言ってみれば、伊豆国三島は幕府ご直参の臣の地、ご直参の県庁であり、これに対して駿河国沼津は田舎の小藩の陪臣の地、陪臣の市役所であり、微妙な格差意識があったのである。
この格差意識が今でも微妙に二つの町の市民意識に残っているようだ。経済的社会的に一体の地域でありながら、歴史的、気分的に合併の機運も起きにくいのである。
ところが、明治以降の交通インフラの整備が、それまでの沼津と三島との格差を逆転、さらに反転させてきたのだ。
旧東海道線は明治二十二年に東京と神戸間が開通する。箱根の山は越せず、御殿場経由で富士山の裾野を蒸気機関車が走り、沼津には機関区が設置されて沼津は東海道の交通の拠点になる。沼津駅はお召し列車さえ停車する一等駅で、駅長は高等官であったようだ。
牛臥・島郷海岸には皇室の御用邸が造営され、最高の保養地になる。沼津中学が開校して駿河と伊豆のエリートを集めている。
三島は、鉄道に見放されて下土狩からのローカル線の田舎町になってしまう。昭和九年、難工事の丹那トンネルが開通して、東海道線は今の路線に切り替わり、三島は、もはや沼津に追いつくことはできなかった。
沼津駅は、東西交通の結節点、御用邸は最高の保養地を作り、沼津中学が地域の教育の中心になっていく。直参の地が陪臣の地にとって代わられてしまったのだ。
しかし、それが再び逆転したのが、昭和三十九年の新幹線の開業。駅は三島に設置され、今度は沼津が駿河の辺境の地に戻ってしまう。海は汚れて御用邸はなくなってしまったし、学区制からか沼津中学を前身とする沼津東高の中心性も失われてしまった。
地域の中心であると自負していた沼津は衰退し、人口は減少し、若者は周辺に移っていってしまう。百年たって直参の三島は陪臣の沼津を格下に見る気分を取り戻し、今や、沼津には三島の郊外の地方都市のイメージしか浮かばないのかもしれない。沼津と三島に残る微妙な格差意識は、このような歴史の産物である。(つづく)
(明海大学名誉教授、東京都目黒区)
(沼朝平成23年10月6日号)
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